まるぶろぐ

備忘録として日々の出来事をこまごまと綴っております

コンタクトレンズなしで

毎朝、起きるとすぐ当たり前のようにコンタクトレンズを入れて過ごしていたのだけれど、仕事も途切れたままずっと家にいるわけだから、メガネでいいんじゃ? そう思いついて、試してみることにした。度の強いのと弱いのがあって、弱いほうにしてみる。

ウィーン国立歌劇場のオペラ「蝶々夫人」は2回めで、2016年9月の公演。前回と同じヨーゼフ・ギーレンの演出で、舞台装置の担当が前回も今回も藤田嗣治であったことに初めて気付いた。伝統的なプロダクションなのねぇ。

後味が悪いと分かっていながら観る気になるのは、タイトルロールを演じるのがクリスティーヌ・オポライスだったから。MET版でも同じ役を演じていて、華やかな容姿がMETの派手な演出によく合っていたから、全体的に地味な今回の演出だとどうなのかな、と興味があったものだから。彼女にはやっぱりMET版のほうが合うみたい。シンプルな和服の衣装が不満だったのか、純白な花嫁衣装のときも、長襦袢の合わせは普通なのに、長着の前を大きくはだけ、胸を強調するような着付け。紫色の訪問着の場面では、首の回りにチョーカーのように白い布を巻いていたし、いわゆる「裾すぼまり」どころかロングスカートみたいに「裾広がり」で、前回のアンナ・マリア・マルティネスより動きが大きい分、裾が大きく開いて長襦袢が丸見えになっちゃう。あえて本式の和服で日本人女性を演じるのであれば、やっぱり着付けも本式にしてほしいなぁ。

また、自害の場面では、「丘に来て」とピンカートンに言付ける歌詞に従い、MET版は丘の上で自害するんだけど、この演出では部屋の中で、前回はほぼ中央で、すぐにうつ伏せに倒れたのに対し、今回は奥の衝立の向こうで自害したあと、鬼気迫る表情で中央までにじり寄ってきて、苦しげにのたうち、ピンカートンが姿を表した途端、バタンと仰向けになって息絶える。覚悟の自害というよりは非業の最期のようで、ちょっとやりすぎなんじゃないかしらねぇ。

それにしても蝶々夫人って、まだ15歳で「たった百円」で買われてピンカートンに嫁ぎ、キリスト教に改宗までして親族から縁を切られ、帰らない夫を待ち続け、わずか3年後に子供まで奪われて死んでしまうのよね。自分は「ヤンキーだから欲しいものは何でも手に入れる」と豪語するピンカートンは、米国人の目にどう映るのかしら。

観ながらチクチクしていて、ニャンドゥティのような細かい作業は、メガネさえもはずして裸眼のほうがやりやすいことを発見。もともとド近眼だからねぇ。

ずっと家にいるつもりだったんだけど、ヨーグルトがなくなってしまい、郵便物を投函する用事もあったので、またお散歩がてら、ちょこっと外出。ついでに銀行で記帳しようとしたら、持参した2冊の通帳のうち1冊はすでに繰越済みのものだった。相変わらずそそっかしい。

家を出る前に、都内のパチンコ店はすべて休業というニュースを見たばかりだったんだけど、よく通る道にあるパチンコ店がいつもどおり営業していて、テレビクルーらしい人たちが数組。あらあら、と思いながら通り過ぎ、帰宅したらもうすでに報道されていた。

今日のお花たち。

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夜には「クリミナル・マインド」を18話まで観たあと、急に思い立って F6 のキャンバスに下地を塗ってみた。イエローオーカー1色。小さい刷毛しかなくて、ムラにならないように塗るのが大変だったけど、縦に横にと何度か塗り重ね、どうにかクリア。乾いたら、下描きの線を絵の具で起こす予定。

まる1日、コンタクトレンズなしで過ごしてみたけれど、特に問題ないみたい。裸眼でできることもずいぶんあることが分かった。そもそもド近眼プラス老眼の場合に、あえてレンズなしで過ごすことが目にいいのかどうかよく分からないんだけど。