まるぶろぐ

備忘録として日々の出来事をこまごまと綴っております

2本立て

寝たのが午前2時すぎだったのに、5時前に目が覚めてしまい、いやいや早すぎる、と再び寝ようとしてなかなか寝付けず、やっとねいったと思ったら今度は11時近くまで寝てしまうという…。規則正しい生活を目指しているのに、難しいわー。

まずはウィーン国立歌劇場のオペラ「蝶々夫人」。2018年12月の公演で、ヨーゼフ・ギーレンの演出はこれまで観た中で最もオーソドックス。まず冒頭から歌舞伎の舞台装置そのままのように、上手にごく普通の日本家屋があり、過剰な装飾は一切ない。衣装もごく普通の和服で、和服での立ち居振る舞いに慣れていないのか足が開きがちだったりはするものの、とにかくごく普通なのがとても斬新。というのも、今までに観たプロダクションは、外国人にとっての日本のイメージってこんなふうなの? と疑問に思うことが多く、衣装も過剰にデフォルメされていたり、息子には文楽の影響か人形が使われていたり(今回は普通に子供が演じていた)。

アンナ・マリア・マルティネスの蝶々さん、アンドレア・カレのピンカートン、ガブリエル・ベルムデスのシャープレス。

演出に戸惑うことがない分、いつもより歌詞に集中できたのか、これまで気づかなかった点がいくつか。ピンカートンの歌詞に、蝶々さんのことを「羽をむしってでも捕まえたい」とか、親戚たちに縁を切られることを嘆く蝶々さんに「親戚なんてなんの価値もない」とか、そして何より、最初から「いつかアメリカ人の花嫁と本当の婚礼をする」と言い切っている。そしてそのとおり蝶々さんを捨ててアメリカで結婚し、戻ってきて事情を知るなり、「僕は逃げる」と責任をとろうとはまったく考えもしない。どこまで自己中なんだか。特定の誰かをモデルにした作品というわけではないものの、戦後のいわゆる「オンリーさん」なども思い浮かび、いつ観ても後味が悪いのは、私が日本人だからなのかしらん。同じ日本人でも男性にとっては印象が違うのかなぁ。

昨日のシャトレーゼより遠い駅前までお散歩。ダイソーや食品売場で買い物を済ませ、帰宅する間に、花の写真をたくさん撮った。そのうちほんのいくつか。

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帰宅後、ロイヤル・オペラハウスからの配信で、ブリテンのオペラ「グロリアーナ」。グロリアーナとはエリザベス1世のことで、先日の「アンナ・ボレーナ」に出てきたヘンリー8世とセイモー(シーモアとも)の間に生まれ、セイモーはアンナを死に追いやってまで女王となった後、その出産時に亡くなっている。

エリザベス1世が寵愛していたエセックス伯に死刑を宣告するに至るまでを描いていて、エセックス伯=ロベルト・デヴェリューで、同じ経緯を別の視点から描いたドニゼッティのオペラ「ロベルト・デヴェリュー」もMET版を観ている。

「グロリアーナ」は現女王の戴冠式を祝って作曲されたもので、天覧舞台として、役者の出入りを見せたり袖にタイムキーパーらしい人がいたりと、劇中劇のような構成。

外では威厳を保っている女王が寝室で、寝間着のままでかつらもつけずにいるところへエセックス伯が乗り込んでくる場面があり、老醜と言ってもいい状態をさらす。これを女王の前で演じるって不敬に当たらないのかと心配になる。そのグロリアーナを演じるスーザン・ブロックは、声は若干、細いというか弱いというか。でも表情の演技が素晴らしい。トビー・スペンスのエセックス伯、マーク・ストーンのマウントジョイ卿、パトリシア・パードンのフランシスにケイト・ロイヤルのペネロペ、ジェレミー・カーペンターのセシル卿。

ウィーン国立歌劇場だけでなく、各国のオペラハウスの公演を自宅で鑑賞できるなんて贅沢よねぇ。