まるぶろぐ

備忘録として日々の出来事をこまごまと綴っております

ぽやんぽやん

maru992005-09-05

夕べのダメダメを反省して、今日は比較的早い時間から仕事を始めた。事前に速達で資料が郵送されてきたぐらいだから、さぞや難解な案件かと思いきや、ん? 4ページだけ? あれ? 特に苦労することもなく、ごく短時間で終わってしまった。あらら〜。別の依頼先から 「送ります」 と連絡のあった書類もとうとう届かず、思いがけず在庫一掃。


気がつけばもうすぐ伯母の命日だというのに、まだお寺に一周忌の相談もしていなかったので、おそるおそる電話を入れてみたところ、ご住職が私だと分かった途端に私の言葉を遮り、ある人の訃報を告げた。伯母の五十年来の友人で、足が悪いのに都内からはるばる埼玉の病院に伯母を見舞い、告別式にも来てくれたTさんが亡くなったというのだ。数年前に他界しているご主人との間に子供はなく、喪主を勤めたのはご主人の従兄弟の子供という遠い親戚だったので私のことなど知ろうはずもないから、連絡を受けることができずに告別式もすでに終わったときき、とても残念に思った。だが残念で済む話ではなかった。発見された時にはすでに冷たくなっていて、実際にはいつ亡くなったのかも分からないという。いわゆる孤独死。同じ一人暮らしの私には身につまされるものがあった。急な発作でも起きたのか、それとも転んで大きな怪我をしたのか … この時点ではそう思った。ところが、Tさんは自ら死を選んだというのだ。それをきいて、頭の中が真っ白になった。膝の痛みで動くこともままならず、耳が遠くなって電話も使えないのが不便だと嘆いていた。ご主人が逝き伯母が逝き、不自由な生活の中で生きる気力をなくしてしまったのだろうか。Tさんの親族関係について詳しくは知らない。「あなたがいるから伯母さんは本当に幸せよ」 と何度も何度も口にしていたのは、自分にはそういう存在がないことへの不安からだったのだと今になって分かった。誰もいない部屋の中でひとり息絶えるまでの最期のひとときに彼女は何を思ったのだろう。そこまで彼女を追いつめてしまった孤独。電話がダメなら葉書ででも寂しさを訴えてくれたら飛んで行ったのに。何の力にもなれなかったことが辛い。喪主でさえ遠い親戚であるため、Tさんの遺骨も位牌もお寺に置かれたままなので、伯母の一周忌でお寺を訪れる際、お焼香だけはさせてもらえることになった。胸が痛い。


思いがけない人の思いがけない形での訃報に、しばらくソファから立ち上がれずにいたけれど、ずっとそうしているわけにもいかない。請求書を投函しに行かねば。相変わらず雨が降ったりやんだりしている中、濡れても構わない格好で出かける。投函を済ませ、プロントでジャパンタイムズを広げるものの、Tさんのことが頭から離れず、文字が目に入ってこない。そうこうしているうちに、いつのまにか眠ってしまった私って一体?! ハタと目が覚めた時の罪悪感ったらなかった。


再びクロスワードを始める気にもならず、バッグの中に入れっぱなしになっていた3冊目の書評の本を読み始める。これが幸い、とても面白そうで、途端に眠気は去っていった。でもあまりこの本に夢中になってしまうと2冊目の書評がおろそかになってしまいそうなので、適当なところで切り上げる。


家に帰って、またしばし現実逃避をしそうになりながら、どうにか立ち戻って、2冊目の書評にとりかかった。書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、自分の欠点が分かってきた。この2冊目は評伝の一種で、書評なのだから本の内容に対する評価でなければならないのに、評伝の対象である人物に対して私の思い入れが強いために、その人物のことを書きたくなってしまうのだ。そうならないようにならないようにと頭の中を整理して、とりあえず所定の分量だけ書きはしたものの、これが果たして書評と言えるのかどうか…。本によっては、単なる感想文になってしまうこともあるし、内容の紹介で終わってしまうこともある。2度目になる依頼を受けて単純に大喜びしていたけれど、そもそも私のようにミーハーで考え方が浅くて深い洞察力や観察力を持ち合わせていない人間には書評なんて無理なんじゃ … と深く落ち込んでしまった。とはいえ、引き受けてしまった以上は、どんなシロモノになるにせよ、書き上げなければならない。あうううう。