まるぶろぐ

備忘録として日々の出来事をこまごまと綴っております

ほっこり

maru992007-11-01

早いもので … というのは月初めの定番の書き出しだけれど、今月はそれ以上に意味のある日。そう、本当に早いもので、1日は博多で亡くなった友人の月命日なのだ。あれからもう1か月…。彼女の美しい最期の顔は今も目にしっかりと焼きついているのに、どうにも現実感がなく、今にもひょっこり彼女からメールが届きそうな気がしてならない。感覚的に、十代の終わりに突然訪れた父の死と似ている。様々な事情で父とは生活を共にしていなかったから、普段からいない人が亡くなったときかされても、父の不在に慣れてしまって、もうすでにこの世にないということを実感としてとらえることができなかった。私にとって父は最初から最後まで、遠すぎて理解できない人だったから。その点、友人との間にそんな隔たりはないのに、彼女という大切な存在がもうこの世にはないということがまだ現実として受け止められないのはおそらく、東京−博多間の距離によるものなのだろう。その距離が父と私の隔たりと同じような作用をもたらしているのだと思う。


1か月を経てもまだ折にふれて深い思いに沈んでしまうのは、後悔ばかりが先に立ってしまうからで、その点では母の死に似ている。水曜の夜に病院を訪ねた際に私がつまらない意地を張り、いつもなら言い合いになるところを母はなぜかスッと引いてしまい、いつになく病院の外まで出てきてタクシーで帰る私を見送っていたのに、金曜の深夜に容態が急変し、土曜の朝の始発で駆けつけた時にはすでに意識がなく、そのまま逝ってしまった。つまらない意地というのは、私がいいって言ってるのに母が食べろ食べろと 「いよかん」 をむき出し、とうとう最後まで 「いらないってば」 と意地を張って結局ひとつも食べずに帰って来てしまったのだった。まさかそれが最後になるとは思わなかったから…。あれから長いこと、いよかんが食べられなかった。今はもうバクバク食べるけど。


友人に対しても、結局なにもしてあげられなかったという思いばかりが募ってしまう。彼女は常に周囲に心配をかけまいとする人だったから、あれもこれもしてあげたくても手を出す隙がなかった一面もあり、私もひとり暮らしが長いから、なんでも自分でなんとかしようとする気持ちはよく分かるのだけれど、それでもやっぱり … と終わりのない堂々めぐり。いつまでもこんな思いでいたら彼女を心配させてしまうと分かっていても、どうにも気持ちが後ろを向いてしまう状態から抜け出せずにいた。それが夕べ、ようやく彼女の妹さんからの手紙に返信を書いたことで、だいぶ楽になった。「書く」 というプロセスが気持ちの整理につながるのだろう。この日記も、日々の暮らしの中で、そういう役目を果たしているのだと思う。


… と月命日に寄せた思いばかりをつらつら書き並べてしまったけれど、なんとな〜く体調もどんよりしてしまい、何をするでもなく、ぐだぐだ、だらだら、ぼんやりと1日を過ごしてしまったのでした。